DEEP KACHIGAWA 第一回 勝川歴史探訪

 

勝川歴史点描


勝川は歴史の古い町です。


勝川周辺からは多くの縄文土器の欠片が見つかっていて、縄文時代からすでに人が住んでいたことが分かっています。

弥生時代になると、庄内川と地蔵川に育まれた豊かな土壌が米作りに適していたことから、多くの人が集まって集落が形成されていきました。昭和56年、環状二号線の建設のための調査で見つかった勝川遺跡からは、弥生時代の住居跡やスキ・クワなどの農耕具や、農耕具の製作所跡が見つかっています。

やがて古墳時代になると、二子山古墳をはじめとする大小の古墳が作られるようになります。この地域を治める豪族は古墳の規模や数からも大きな勢力であったことを窺わせますが、尾張氏や大和朝廷にも近い関係にあったいう説もあります。現存する古墳としては、二子山古墳の他にも、勝川町の愛宕古墳神社があります。

白鳳時代、7世紀後半)には勝川に寺院があったことが中央線の建設中に発見された廃寺跡(通称「勝川廃寺」)から分かっています。朝鮮から仏教が伝来したばかりの当時としては寺院はまだ珍しく、古墳と同じく権力者の権威付けのために建てられたようです。

時代が下って、平安時代には三筆として名高い小野道風(八九四~九六六)が松河戸で生誕したといわれています。此の伝承は、尾張藩士天野信景による「塩尻」に記述され、それをうけて松平君山(同藩)が「張州府志」にこの地を生誕地と伝えると述べ、以後尾張藩所学者の間に通説のようになったようです。

15世紀末、この地域で悲しい出来事がありました。 昔からこの地域は度重なる洪水に悩まされてきましたが、水神様の怒りを鎮めるために十五歳の娘を生贄として川底に沈めたという「十五の森」の悲話は今も語り伝えられています。
 

戦国時代には、小牧長久手の役のときに徳川家康が勝川の太清寺(阿弥陀堂)に滞在したときの有名な逸話が残されています。

江戸時代になって街道が整備されると、勝川は下街道の往来のお陰で商業の町として繁栄するようになりました。江戸時代の勝川は下街道の宿場町として賑わったといいます。明治時代には中央線が開通し、1900年には早くも勝川駅が開設されました。水害を避けるため、あえて町外れに勝川駅が建設されてからは、駅前に商店街や郡役場が出来るようになり、町の中心は徐々に勝川駅前に移ってきました。国道19号線の建設に伴って役場や郵便局などの施設も鳥居松に移動となり、最近では駅周辺の大規模な再開発が行われ、現在の勝川には残念ながら昔日の面影は殆ど残っていません。勝川は今もなお発展しつづけていますが、とき には立ち止まって、現在の繁栄は過去の歴史の上に成り立っているということに思いを馳せることも無意味ではないのかも知れません。

 


 

勝川周辺の歴史スポット

 

1.十五の森趾

 昔、勝川駅裏の松河戸一帯では毎年のように、庄内川の堤防が切れ、被害を受けていました。
明応3年(1494年)6月、この地を通りかかった陰陽師の「水神様に十五歳の乙女を捧げれば、水神様の怒りはおさまる」という言葉に従い、庄屋矢野氏の当時十五歳だった娘を洪水でよく切れる場所に人柱として生きたまま木箱に入れて沈めたそうです。爾来、人々はそこに塚を築き、「十五の森」とよび、娘の菩提を弔うようになったといわれています。

「十五の森」の詳しいお話は、勝川の名物おじさんの紙芝居をご覧ください。

 

(所在地)愛知県春日井市愛知町1丁目 愛知電機駐車場脇

 

2.小野道風生誕地(道風記念館)

 平安時代、和様の書を確立した三跡・小野道風(894~966)は父・葛絃が松河戸に滞在中、里人の娘を娶って生まれたといわれています。

この伝承は、尾張藩士天野信景による「塩尻」に記述され、それをうけて松平君山(同藩)が「張州府志」にこの地を生誕地と伝えると述べ、以後尾張藩所学者の間に通説のようになったようです。

(所在地)愛知県春日井市松河戸町946番地2

 

3.太清寺(十王堂)

 天正12年(1584年)4月、徳川家康が小牧山より長久手に軍勢を率いて向かう途中、この寺で小休し、当時「徒歩川(かちがわ)」と呼ばれていたこの地の名を吉慶と喜び、この寺の阿弥陀堂で必勝祈願をして出陣し、勝利を収めたといわれています。

(所在地)愛知県春日井市勝川町2丁目14−3

 

4.愛宕古墳神社

五、六世紀頃の古墳の上にある神社で、「オアンタンサマ」という愛称で親しまれてきました。この他にもこの付近には南東山古墳(大塚山)、山神、兜塚、オシメンド森古墳等があり、勝川古墳群と称されていましたが、現存するのはここだけです。

 

(所在地)愛知県春日井市勝川町4丁目118番地

 

5.勝川廃寺跡

中央線開設時、勝川駅西南の200メートル当たり一円より、複弁八葉の美しい蓮華文軒丸瓦、唐草文軒平瓦が大量に出土しました。仏教が伝来したのは六世紀半ばの欽明天皇の時代で、この頃には大規模な寺院の建立が始められたとされていますが、この寺が建立されたのはそれから程ない7世紀後半~八世紀前半の白鳳・奈良時代と考えられています。

(所在地)愛知県春日井市勝川町5丁目

勝川地区資料館で展示されている勝川廃寺から出土した瓦

 

 

6.勝川地区資料館

勝川町にある市立の施設で、勝川地区の歴史に関する写真や文書などの資料を展示しています。地元に住んでいると返って知っているつもりで意外と知らない歴史の真実にふれることができます。

(所在地)愛知県春日井市勝川町4丁目129番地

(開館時間)土曜日13:00~15:00

 

 

 今回の特集記事を作成するのにあたっては、勝川地区資料館の山本智彦さんと勝川町提灯山保存会の大脇桂さんに多大なるご協力をいただきました。ご協力ありがとうございました。
山本さんによると、現在地元の郷土史研究家の故・大脇二三さんの郷土史を自費出版する計画が進行中とのことでした。
 

 

勝川地区資料館には昔の勝川の貴重な写真が多数展示されていました。今回、館長さんのご好意でその中の幾つかの写真をお借りして、弘法写真館に掲載させていただくことができました。

 


徳川家康に関する有名な逸話

●天正12年(1584)の家康公と長久手の戦いにまつわる故事

『尾張名所図会』後編・巻四に次の記述があります。

勝川村より出づ。天正十二年長久手御陣の時、神君ここに至り、川の名を問いたまひしに勝川と申すよし啓せしかば、殊にご喜悦ありて吉兆とし、直ちに旗竿に伐らせたまひしより、今に至るまで此所の竹を旗竿に奉るなり。」
 

家康直参の根岸直利がまとめた軍記『四戦紀聞』の中の『甲申戦闘記』にも以下のような同様な記述がみられます。

「八日子の刻小牧山をご出馬ありて、市之久田村・豊場村・如意村を御過ぎ破暁の頃勝川村へ御着陣、此処にて暫く御馬を休められんとて、郷士長谷川甚助が宅へ御成りありて、甚助を召され、川の浅深・地名を御尋ねあり。則委しく申し上げれば、勝利の名に吉兆を御祝し、御湯漬を召し上げられ、御旗をも掲げ給ひ、御差物の竿を代らせられ、御物の具を此地にてかためさせられ、御機嫌の上御陣羽織を甚助に下され、夫より小幡をさして進ませ給ふ。
 

 

●家康の牡丹餅

「小牧長久手の戦いで、家康公が小牧山から長久手へ出陣の際、勝川の名は縁起がよいと太清寺の阿弥陀堂前に休憩された。その折、庄屋甚助の妻が公に牡丹餅を作って差し上げたところ、公が食べようと端をつけられた時、その1本が折れた。公は顔色を変えて「不吉なこと、今日の戦運はどうか危ぶまれる」とつぶやかれると、頓知者の甚助が、即座に「これはまさしく天下は1本に成るの吉兆でございます。」と謹んで申し上げた。これを聞いた公は笑い顔にかえられ、美味しそうに牡丹餅を召し上がられ、鎧・兜を締めなおし全軍を指揮して勝川(徒歩川)を渡り、戦場に向かわれ、やがて、長久手の戦いで倍以上の秀吉軍に大勝利の後、道案内をはじめその功をめでられ、甚助に永代苗字帯刀をゆるされ、代々長谷川甚助と名乗るようになった。そのため甚助の子孫は、「その恩を忘れず4月17日の公の命日には、必ず御神酒と牡丹餅をお供えすることになっていた」と、八代目長谷川甚助の書いた古文書に明記されている。

※長谷川甚助について

 徳川家康の逸話に度々登場する長谷川甚助は、戦国時代の小牧・長久手の役の頃の勝川村の庄屋であり、徳川家康から刀・陣羽織の袖を拝領した史実は『春日井風土記』『尾張史』等にも記述があります。初代甚助の墓は太清寺に現存しており、以後勝川の庄屋を何代も続けてこられ、戦前までは直系のご子孫が勝川に住まわれていたそうです。なお、家康に拝領した刀は戦時中にご子孫が中国遠征の折に軍刀として持ち出し、終戦の帰国時に武装解除で没収されてしまったということです。陣羽織の方は、戦時中のお守りとして小さな端切れにして出征する人たちに分け与えたために、殆ど原型を留めていないものの、今でもご子孫によって大切に保管されているそうです。

以上は長谷川甚助の家から分家した家の子孫、長谷川良市氏による著作『勝川今昔ものがたり』(風媒社刊)を参考にさせていただきました。この本の中には陣羽織の写真も掲載されていましたが、転載はご遠慮させていただきました。

 

(文責)弘法PCサロン 松浦成隆

(取材協力)水野鈴男さん、大脇桂さん、水野正美さん、山本智彦さん(順不同)